中尊寺を没落させたのは誰?

歴史があるわりには仏堂が新しい中尊寺。一時は奥州藤原氏の滅亡で窮地に追いやられましたが、いまや世界に認められる存在になりました。

栄枯盛衰の浪をくぐり抜け、復活を遂げた中尊寺の歴史とは?

現在では想像できないほど大きかった中尊寺

中尊寺は850年、慈覚大師・円仁によって開かれました。

しかし、中尊寺を東北随一の大寺院にした立役者はご存知の通り、奥州藤原氏の初代・藤原清衡。12世紀初頭のことです。

11世紀後半に起きた、「前九年・後三年の役」による戦没者を慰霊するためのものでしたが、夢はもっと大きく、都から遠く離れた地に仏教を重んじた平和国家を作ることでした。

「前九年・後三年の役」では清衡の妻子をはじめ、多くの人命が失われます。

しかし、皮肉にもその戦乱によって対立していた一族が倒れ、散在していた富と権力が清衡ひとりに集中したのも事実で、大規模かつ絢爛豪華な造りになっていきます。

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当時、釈迦如来100体を安置した「釈迦堂」や、両界曼荼羅に見立てたお堂に木製の諸仏像を安置した「両界堂」(東寺の立体曼荼羅みたいなものでしょうか)など、都顔負けの施設を誇り、その規模は寺塔40余・禅坊300余の大寺院でした。

また高さ3丈(約9m)の阿弥陀如来像と、その脇侍の9体の丈六阿弥陀像を安置した5丈(約15m)の「大長寿院」(浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂のイメージ?)は源頼朝の羨望の的で、のちに鎌倉で再現しようと試みられたほどです。

三世代が分業して完成させた平泉

平泉ではさらに二代・基衡が薬師如来を本尊とする「毛越寺」、「観自在王院」を基衡の妻がつくり、三代・秀衡が阿弥陀如来を本尊とする「無量光院」をつくりました。

それにより三世仏(過去釈迦、現世薬師、来迎阿弥陀)をそれぞれ本尊とした寺院によって、全ての生あるものを仏国土へ導こうとする平泉文化が完成しました。

(三世仏に該当する仏様は諸説あります。上記は中尊寺の説より。)

これが平泉の最高のときです。

衰退から復活へ

しかし、奥州藤原家の滅亡以降、その栄華は金色堂やほんの僅かな宝物を残して消えてしまいます。建造物は火災で焼け、歴代の権力者が宝物を都に移してしまいました。

何となく、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が中尊寺をダメにしたように思いますが、意外にも信仰心が篤く、実際に「鳥羽法皇御願」の寺として庇護したとされます。

遠い地にあるので率先して盛りたてはしなかったかもしれませんが、寂れた要因は、復興を指示しても従わなかった家来たちにあるようです。

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それに対し、豊臣秀吉などは5,000巻以上もあった「中尊寺経(金銀字一切経・金字一切経など)のうち4,000巻以上も自分が住む京の伏見に運び出したといわれます。保護のためだったのか、なんでも自分のものにしたがる嫌なヤツだったのか、どちらでしょう?

荒れ果てた寺を保護し、景観を整備して現代に近い形になったのは江戸時代・伊達藩領になってからといわれます。白山神社が建てられたのもこの時代です。

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さらに時は過ぎて、明治の末に現在の本堂が完成し、戦後、学術調査を経て、その価値が評価されると事態は一気に好転します。

1962年には、初めて金色堂の解体修理が行われました。6年に及ぶ修理によって、創建当初のような美しい金色堂に蘇りました。

金色堂は文化財保護法により国宝建造物第1号に指定されています。また、2011年、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」は世界遺産として、世界中に知られることとなりました。

日本にいたら一度は見てみたいと思う中尊寺も、美しい姿に戻ったのはつい最近のこと。

しかし、どれほど修復技術が発達しても、消失した最高のときの姿を見ることはできないのです。

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